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【11.08.11】震災ボランティア報告

山元町沿岸部の様子

 草ひきの作業が終わってから、山元町沿岸部に行きました。町や住宅が流され一面に平地がひろがっていますが、その中で中海小学校の校舎が残っていました。小学校の前で、小学校に近い山元中学校の校長先生と出会うことができ、校舎の中まで見せてもらうことができました。

 中海小学校は平成7年に建てられた新しい学校でした。2階建ての校舎は耐震化がされており、建物は大丈夫ですが津波が2階の屋根の所まで達した跡がありました。写真は体育館の様子です。とっさに、子ども達は大丈夫だったのか心配していましたら、校長先生が当日の話しをしてくれて、全員が無事だったことがわかりました。

 校長先生の話では、地震・津波の時、子ども達を距離のある高台まで非難させるのは難しいと判断し、校舎の屋上にある倉庫に避難させ難を逃れたそうです。この校舎は海に対して垂直の位置に建てられており、屋上の倉庫や屋上の排水も津波対策として設計がされていたとのことでした。
 
 この倉庫は小さいドアが一つあるだけで、まっくらな屋根裏のような所でした。ここに生徒50人と先生そして地域の皆さん40人で、ひと晩をあかしたました。3月11日は雪のちらつく寒い日でしたが、倉庫にあった生活発表会の衣装などで身をくるみ寒さをしのいだそうです。翌日、屋上に出て発炎筒をたき、それを報道のヘリが発見し、救助が着て皆さん無事だったとのことです。(よかった!)

 学校の入口には、明治時代に6尺の津波があったと記した石碑がありました。この教訓をもとに、学校が津波の備えをしていたことが、子ども達の命を救ったのでしょう。

 屋上からの景色を前に「今は何にもないけど、ここは住宅地でした。学校からは家や松林が見えて、海は見えなかったのに、海岸線が変わってすぐそこが海になりました」
と校長先生が話していました。中海小学校の子ども達は、この校長先生のいる山元中学校に通っています。

グランドの集められた被災した車

支援物資の仕分け

 3日は支援物資の仕分けをしました。仙南地区委員会に届けられたお米・野菜・衣料・生活物資を、品物別にし、食品は小袋に小分けにしました。ボランティアのみんなと地元支部の皆さんとの共同作業です。
 翌日の朝から、仮設住宅等にお届けするそうです。残念ながら、物資のお届けにはいけませんでしたが、後から皆さんに喜んでもらえたことを聞きうれしく思いました。

あたたかく力強い連帯を

 日本共産党ボランティアセンターでは、それぞれの所(県)から、様々な立場(お仕事)の皆さんが、ひとつの家で寝食を共にし、被災者の支援に取り組んでいます。そこには、あたたかくて力強い連帯がありました。そして、震災支援のことだけでなく、日頃の生活や活動についても学ぶことができました。
 また、これまで「安心できる暮らし」という言葉を何度も使ってきましたが、それがどれだけ大切なことかを改めて感じました。  

 今回の震災ボランティアに参加して、この大震災の中で、被災された方々に何と声をかけたらいいのか分かりませんでした。悲しみや苦しみがあり、将来への不安をかかえ、今を生きぬく方々に「がんばろう」なんてとても言えません。「共にがんばります」と軽々しくも言えず握手をするだけでした。東日本の復興と被災された方々の生活再建ができるまで、引き続き私のできること、しなければならないことを実行していきます。


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